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土佐の菓子の歩み

歴史と供にあった菓子

土佐の菓子 土佐の国の菓子とは?と言いますと、弥生時代から小豆(あずき)は遺物として発見されており、穀物を栽培するようになってからは、儀式や年中行事に利用されておりました。小正月(一月十五日)に小豆粥を食べる風習があったと、平安時代の書物である「土佐日記」(土佐の国司「紀貫之」著書)にも記載されております。

 室町時代末期には「応仁の乱」で、京の都を捨て土佐の中村へ入られた前関白の一条教房より京文化が持ち込まれ、その際に菓子も茶の湯と共に入ってきたとされています。

 その後、砂糖が入ってきてからは、先に述べた小豆を使用した「あん」が生まれ、山芋(とろろ)・米粉などで作った饅頭が出来たとされ、土佐の国でも例外ではなく献上したと言われております。

 戦国時代を経て山内氏が入国してきた江戸時代には、菓子の技術も発達。元禄年間には、山内家御用菓子司があったとされ、名を〝西川屋〟といいます。参勤交代の御宿泊所に定められていた、赤岡という所にある与楽寺で宿泊された折、菓子を藩主に献上したと聞いております。その菓子、銘菓「ケンピ」は素麺からの製法をヒントに作ったものであり、この干菓子は堅いところから堅干(ケンピ)と名付けて、広く一般にも売り出されました。今では、土佐の唯一古い銘菓として知られております。

 土佐の国でも、高知城下と近郊の村を合わせて数十件あったと思われます。

 江戸へ上がる大名の参勤交代も高知城下に影響を与えたことでしょう。「中菓子」は明治時代の初めごろに作られた菓子と聞いています。

 テレビドラマ「龍馬伝」にも出て来た"まんじゅう屋長次郎"(近藤長次郎)の実家も、江戸時代末期(幕末)の菓子屋であったことはよく知られております。

 また、高知市から安芸方面に向かう途中に、手結山という所がございますが、その山越えの間にお茶屋餅の店があり、一服して峠を越したと聞き伝わっています。今現在の国道沿いにてご商売をされております。

 明治・大正時代から昭和の時代に入りますと、菓子業界も大いに発展してまいりました。高知県下の菓子組合も設立当時(昭和37年)には組合員数が236企業はいたと聞いております。

 私共組合は、現在組合員数の減少が止まらず、当時より4分の1位になっています。しかし、高知県菓子工業組合に所属する組合員の方々は多くの人に喜んでいただける菓子づくりを目指して日々頑張っております。

 高知県菓子工業組合事務局長・森下広和

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