小江戸文化の名残を残す紅梅焼と独自の発展をしたソフト紅梅焼
江戸時代、甲斐(現在の山梨県)は幕府の直轄領として長らく徳川家の縁戚が治めていた。
家光の時代、家光の三男である徳川綱重が甲斐を拝領し甲府藩が成立した。さらに家綱の時代には側用人であった柳沢吉保が十五万石で入領し甲府藩を治めたが、享保時代、徳川吉宗によって柳沢家は大和国郡山藩に移封され甲府藩は廃藩とされ、その後甲斐の国は直轄領として甲府城に詰める甲府勤番の支配となり再び天領となった。
このような関係から当時の甲斐、特に甲府は江戸文化が素早く流入していた。
甲府勤番の支配が始まった当時、江戸の浅草で生まれた「紅梅焼」と呼ばれる小麦と砂糖を水でこね、寝かせて発酵させた生地を薄くのばして梅花や短冊型に抜き鉄板で焼いた堅焼きの小麦煎餅が江戸駄菓子として人気を得ていたが、それがいち早く甲斐にも流入したといわれている。
現在では配合に卵が入りより食べやすい物になっていて、同種菓子は三重県や埼玉県、四国地方にも散見されるが、山梨県ではいまでも「紅梅焼」が日常的に食べられる身近な菓子として残っており、スーパーなどで売っていない店の方が珍しいほどにポピュラーだ。
また「紅梅焼」の配合にミルクと油脂、ベーキングパウダーを加えふっくらと焼き上げた「ソフト紅梅」と呼ばれる、山梨独自の「紅梅焼」も存在している。
こちらは甲府の「とり若」という肉屋が考案した菓子で、揚げ物に使う溶き衣を無駄にしないようにと考えて生まれたといわれている。
食感としては目の詰まった固めのパンケーキのような感じで、生地の味わい自体は小麦粉と砂糖、卵とミルクという単純な配合なため、ともすれば一枚食べる間に飽きの来る感じだが、焼き上げた直後に薄く刷毛で塗った摺り蜜が生地の味わいに最適なアクセントを与えていて、二枚三枚と手の伸びる菓子に仕上げられている。
近年では、抹茶や干しブドウなどのドライフルーツを入れた製品も多く出回るようになりさらなる展開を見せている。
江戸時代の庶民の菓子がほぼ原形を留めたままいまに残りいまも山梨の人間に愛される「紅梅焼」、そして、山梨で生まれた「ソフト紅梅焼」、このふたつの製品のように古の伝統を伝え、さらなる革新を続けてゆく姿勢こそ、私たち製造者に必要なものではないでしょうか。
山梨県菓子工業組合・齊藤良太