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横手柿と柿羊羹

明治時代から続く銘菓

柿羊羹 雪深く、かまくらで有名な横手市は、県南部に広がる盆地の真ん中に位置する。その恵まれた自然環境により稲作や果樹栽培が盛んで、多くの特産品が生まれている。そのひとつに横手柿がある。古くから秋田の松原柿、角館の雲然柿と並び称されており、晩秋の柿売りの声や初冬の雪をかぶった朱色の柿の姿が横手の昔ながらの風情とされてきた。

 その始まりを探るため、関わりがあると伝わる大瀬家(秋田県横手市)を訪ねて話を伺った。大瀬家は柿の木が点在する武家通り沿いのお屋敷で、中に入ると槍や甲冑が飾られている。祖先は源氏・那須家(屋島の戦いで有名な那須与一の系統)の流れをくみ、秋田藩主佐竹公の家臣として横手に着任したとのこと。横手柿は、元禄の頃に分家の大瀬宇左衛門が京都から柿の木を持ち帰り、本家大瀬弾右衛門の敷地に植え付け、そこから宇左衛門柿として広まったそうだ。当時の武士にとっては蓄えの足しであり、柿渋の原料としても重宝されたらしい。数年前まで庭に古い柿の木があり、毎年美味しく食べていたとのこと。訳あって伐採してしまった事がとても残念だと話されていた。

横手柿 一方、郷土史によると、横手城代戸村公の家中、大瀬宇左衛門が江戸参勤の際に珍しい柿二種を持ち帰り、熟柿を自宅に、さわし柿を本家に植えたと記されている。柿の来歴には諸説あり今後も調べていく。現存する横手柿はさわし柿で、昭和初期には千四百五十本ほど確認されたらしい。生活上・経済上にも意味があったため次第に広まっていったのだろう。

 「柿羊羹」は明治三十五年に、木村屋の創業者山下九助が当時の横手に有名なお土産がないことから、名産の横手柿に着目して創製した。干柿に白あんと熟柿を加えて炊いた羊羹は好評を博し、奥羽本線の開通と共に一躍全国に名を知られるようになった。当時の羊羹は、気候の変化や乾燥によって変質しやすいものだったが、九助はこの問題の解決に当たり、大正十五年に近年まで全国の羊羹に使われていた「アルミ箔衛生紙缶」を発明した。効果を試すため、渡米する知人に「柿羊羹」を持たせ、折り返し船便で日本へ送り返させた。赤道直下を二度通り、二ヶ月以上経過したが変化ない状態だったそうだ。九助はさらに、ブリキで五十連の羊羹型を作り、それに「アルミ箔衛生紙缶」をはめ込み、原液を流して水道水で冷却する仕様を考案している。二時間足らずで製品化される事は当時では画期的であった。

 「柿羊羹」は現在も横手干柿と熟柿(品種不明)を加えて炊いている。末永く継承していきたい銘菓である。

 秋田県菓子工業組合理事・山下淳一郎

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