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今秋遷座祭を挙行

大阪半生菓子協同組合

 遷座祭とは何事なのか、不思議に思われることだろう。今回は、その謎を解き明かそう。

 大阪半生菓子協同組合は創立35年を経過しているが、以前、それも戦前戦中は大阪菓仲会と称していた。菓子同業組合では第4部に属しており、相当の組員を擁していたようである。昭和5年当時の菓業新聞には中物製造業として記録され、川口常次郎翁がほとんど一人広告も出し、組合会でも活躍している。

四天王寺の河藤 大阪の聖地と云えば四天王寺が真っ先に挙げられる。その西門が有名で昔から極楽浄土の入り口と称される。聖地とは千年以上動いていない場所であることが第1の条件である。四天王寺は聖地なのである。付近は椎寺町と言う町名で通っていたのであるが、最近町名が変わってしまった。

半生菓子のいろいろ 川口常次郎翁は、この地に「中物一式 河藤」なるのれんを出した。大正の初めであった。以来「河藤」は、四天王寺の参道にあって、動いていない。彼岸の中日には、河藤の干菓子を求めて行列ができる。河藤には生菓子もあるのだが、干菓子の品ぞろえではついに大阪一となった。狭い店なのだが、干菓子が無数に並べられている。茶道の先生方のご要望に即座に応えられるのは、多分ここだけではなかろうか。それに、半生菓子仲間の製品も取り入れているから正に壮観である。四天王寺が聖地なら、其の参道にあって「河藤」もまた半生菓子の聖地と呼べるだろう。

 菓仲会の碑

 川口常次郎翁の功績に対し、昭和18年、熱誠黙し難く、菓仲会一同は仙台石の巨大な碑を建立した。碑の内容は以下のようである。この時代の菓業人の思いが凝縮されているではないか。

 「菓仲会長川口常次郎氏ハ我国ノ益々発展飛躍ヲ遂ゲ国威ヲ八紘ニ輝カス第一歩ハ人口ノ倍加ニ有リトナシ而シテ内ニ顧ミテ家々カ其ノ祖先ヲ崇メ其ノ加護ヲ受ケ血統ヲ相承ケ相継クコトハ我ガ国民ノ義務ナルヲ念ヒ地ヲ此処ニ相シテ我ガ家ノ宝域ヲ築キ祖先ヲ祭リ忠孝両全ノ道ヲ明カニス我等其ノ赤誠ニ感ジ君カ徳ヲ慕ヒ以テ一石ヲ献スト云爾 維新 昭和十八年四月 大阪菓仲会一同」

 川口翁は、この石碑を川口家の墓所に据えた。墓参の都度、碑にも出会い思いを新たに出来るとの考えだったのだろう。川口家の墓所は奈良県郡山にある。

 「河藤」の故郷であり、これも意義あることだと思われたようである。

 ところが、二代目は久仁夫氏、三代目、現在社長の藤太郎氏の時代となった。

 藤太郎社長として見れば我が墓所に昭和18年の古い業界の石碑をいつ迄も預かって置くのも荷が重い。何とかして貰えないだろうかと役員会に相談があった。

 デカい石碑の置き場所をどこにしようかと思案することになった。相談役の青谷禎三氏が、菓祖神社の「橘本神社」のお願いして見たらどうだろうか、と提案された。それは名案だ、しかし、奈良の郡山から和歌山の海南市までどうして運ぶとガヤガヤ。石の専門店に依頼をすれば、いとも簡単と分かったものの、まずは橘本神社にお願いに上がろうと、理事長桝井増太郎、相談役の青谷、中島が3月22日、参上して、前山宮司に直面談依頼したところ、予想以上に良い場所を指定して頂いた。川口翁と菓仲会の思いが70年振りに再び大阪半生菓子協同組合員に披露されることになる。このように碑を遷すことを遷座というのだと宮司が教えて下さった。平成26年の秋、菓仲会の孫と曾孫が橘本神社で盛大に遷座祭を行なうことになった。半生菓子に幸あれ!

 大阪半生菓子協同組合相談役・中島孝夫

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