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『飴の歳時記』

各地の飴菓子を後世に

福飴「ネヂとお多やん」 茶の湯で用いる有平糖の美しさには目を見張る物がある。そんな有平糖細工以外にも日本国内には季節ごとの独特の飴菓子や、寺社の門前などで売られている名物飴がある。首都圏では「金太郎飴」や「川崎大師の痰切飴」、川越飴屋横町の飴玉や組飴がそれにあたるだろう。先の九月号『雑菓子考』でも若干触れたように、江戸市中やその周辺では、上方からの「下り物」や、尾張・三河などで作られた「中国物」の影響を受けながら、様々な駄菓子や名物飴が生まれたと考えられる。一方、上方では『摂津名所図会』にある「根元平野飴」(こんもと:元祖という意味)、京都東山の「幽霊子育飴」、大和は帯解寺の「地黄煎飴」、大和下市の初市で売られる「素飴(簀飴)」など、そして、元々は節分の縁起物で、今は正月十日の戎っさんになくてはならない「ネヂ」と「お多やん」などの「福飴」がこれにあたる。また、和歌山の水門吹上神社の「戎っさんののし飴」もある。また、中部地区では、熱田神宮でネヂとお多やんを一緒にしたようなカラフルな福飴が売られている。

有平糖細工 さて、元は南蛮菓子として我が国に伝わったアルフェロアは(大航海時代のアルフェロアの痕跡はテルセイラ島や上海に残っている)、伝播初期には堺から広がり、鎖国以降は長崎を窓口に醸熟され、古来の飴菓子と融合して日本の菓子へと変化していく。それが有平糖という日本の菓子なのです。さらにそれらの発展系がまねられてスペインのバルセロナで飴細工専門店が生まれ、多店舗展開して高級品として注目を浴びている。技術が逆輸入されて持て囃されるという言う歴史の循環、おもしろいものです。

 話を60年ほど前の大阪に戻します。近畿圏では「たこ焼き屋」が巷に溢れ出した昭和30年代初頭、たまに見られた「唐人飴売り」などの芸能を伴った飴売りが姿を消し、ややあって、チンドン屋の影も薄くなった。そして、文字細工のべっこう飴売りや、ハサミを操って飴の鳥などを作る飴細工屋も絶滅が心配される。現在、わたしが把握している範囲だが、愛三岐では断面に絵柄を入れる「組物」とか「組飴」と呼ばれるものを中心に数軒が製造を継続しているが、首都圏では二軒ほどが残るだけ、近畿圏でも商売として継続しているのは年々減少して数軒を残すのみだ。飴屋だけの問題ではないが、逆輸入された細工飴が高級品として商売が成り立っている一方、連綿と続いてきた伝統技術に陽が当たらない現実、そしてご多分に漏れず飴菓子業界も職人の高齢化による廃業や採算性の悪化が拍車をかけている。「組飴」にせよ「有平糖細工」にせよ、見かけは同じようでも、砂糖と水あめの配合比や火詰め温度の高低や合成着色料使用の有無による難易度も考慮されることは少ない。

 日本各地に残る伝統的な飴菓子をはじめとする様々な菓子が、歳時記として語り継ぐことができるように残していかねばならない、何とかしなければならないと切実に思う昨今である。

 大阪府飴菓子掛物組合理事長・豊下正良

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