雑菓子考―
上方に駄菓子はなかった
幕府が置かれたことによって一大消費地として急拡大した江戸には「下り物」と言われる物資物産品が大量に送られ、さらにより江戸に近い尾張・三河などからも中国物(江戸と上方の中間地点で作られた物資と言う意味)が江戸に送られるようになっていった。そして徐々に江戸およびその周辺でも色々な物が作られるようになって行く。生産地が消費地に近づく典型的な例であり、菓子類もその例外ではなかった。
さて、江戸時代中期の大坂で寺島良安により編纂された類書(日本版百科事典)である『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)の巻第百五目録地部醸造類の項目には、現在では菓子に分類されている当時の加工食品類が列記され、細かな解説がなされている。例を挙げるなら「大豆豉、未醤(みそ)、……、酒、……、納豆、醤油、……麹、……、酢、……、豆腐、七草粥、……、饅頭、蕎麦切、環餅(けんぴ)、粔籹(おこしごめ)、……、飯、餈(もち)、餡、牡丹餅、索麺(そうめん)、麩筋、白雪糕(はくせっこう)、……、粥、餌(だんご)、粽(ちまき、該当する漢字が見当たらないので一般に使われている漢字で記しました)、饂飩、……、飴、まめあめ、求肥糖、糖花(こんへいとう)、羊羹、加須底羅(かすていら)、煎餅、唐松、松風、外郎餅、浮石糖(かるめいら)、松翠(まつのみどり)、沙糖漬ノ類」果たして現存する食品のどれに該当するのか、列記に法則性はあるのか、さえつかみ得ない雑然とした配置に思える。あえて言うなら、現在でいうところの「加工食品一覧」とでも言えようか。そしてこれらの項目を、その音読、和名、関連の漢語を付し、細かな解説を漢文で説明しており、漢文の素養に乏しい身には手に余るものではある。また、言葉としては同じでも、団子や牡丹餅はわれわれの見知った甘い和菓子ではないように考えられるし、羊羹も解説文を読み下した感じでは、寒天を使わない蒸し羊羹と思われる。
さて本題。和漢三才図会の刊行された頃、今われわれが菓子として認識している大方である饅頭や餅や団子や羊羹が、蕎麦や饂飩と並列に扱われ、飴や干し柿を粉にした甘味類、南蛮菓子に起源する金平糖やカステラなどが明確に分類されてはいなかったことがお分かり頂けたと思う。当時、菓子と呼ばれていたものは、果物などの形を模した、現在は半生菓子に分類されているものの一部を指し、分類しきれない菓子群は「雑菓子(ざがし)」と呼ばれていた。現在でもそうだが、五畿内と呼ばれる近畿圏では、タ行とザ行の濁音を曖昧に発音することが多く、近畿圏外の人々にとっては「ざがし」が「だがし」に聞こえ「だ」に「駄」の漢字を充てたことにより「駄菓子」という言葉が生まれた。そして「駄菓子」が裾物の菓子であるという印象がすり込まれた感がある。少々うがった見方かも知れないが「駄菓子、雑菓子」こそが今日の菓子の多様性を育んだ立役者だと考えられないだろうか。
大阪府飴菓子掛物組合理事長・豊下正良