菟田の朝原
日本書紀に登場する「飴」
菓子関係者のなかで、日本書紀の神武紀に「飴」が出てくるのを知らない人は少ない。しかし、その解釈については様々で、現在の日本語を物差しとして読めば言葉の意味を読み違えるし、生半可な科学知識で読めば荒唐無稽な物語にしか写らない。少なくとも、日本書紀が編纂された時期の認識を加味しながら、ひとつひとつの文言の意味を推し量り、解釈をしていく必要を感じている。
先ず以下に、安貞二年、卜部兼方が書写した日本書紀を元とした慶長十五年の版本の一部を示す。「・・・・丹生川上用祭天神地祇則於彼菟田川之朝原譬如水沫而有所咒著也。天王又因祈之日吾今當以八十平瓮無水造飴。飴成則吾必不假鋒刃之威坐平天下乃造飴飴。即自成。又祈之日吾今當以嚴瓮沉于丹生之川如。魚無大小恙酔・・・・」この前後も含め現代語訳をするとこうなる。「・・・・爺と婆に変装したシイネツヒコとオトウカシは敵のなかを抜けて、天香具山の埴(はに:粘土のこと)を持ち帰った。そして天皇はこの粘土で八十平瓮や天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生川の川上へ上り神祀りをした。また、菟田川の朝原の水泡が湧き出す呪詛の寄りつくところがあるのだが、天皇が祈いをして言われるには、「わしは今まさにたくさんの酒器で水を使わずに飴をつくろう。飴ができたならば、必ずや武器の威力を借りずして座して天下を平らげるだろう」「そして飴をつくったところ飴はたやすくできた・・・・」山下晃四郞氏はその著書『日本菓子発達史巻一上古の倭菓子』のなかで、水を使わずに飴をつくる事は不可能であり、飴を「たがね」と読ませている事から、丹生と言う地名とも絡めて金属の精錬との関連を示唆している。この説が氏独自のものなのか、何処からかの引用なのか不明だが、広く認識されている説となっている。
さて、本題の「無水造飴」であるが、わたくしは以下のように考えている。先ず飴をつくった場所だが伝承地とされている場所かその近辺である事に間違いは無いだろう。物語の当時は地熱により河川敷に温泉が湧き出ている場所であり、そこで八十平瓮(たくさんの酒器)に糵(米麹)を納め、地熱と昼夜の寒暖差による結露の繰り返しによって、数日を掛けて「米の麹を煎じたもの」すなわち「水飴」がたやすく出来たと考えている。(イラスト参照)大阪歴史博物館学芸員に確認したところ、平瓮は通説では素焼きの平皿とされている土器ではなく、徳利をへしゃげたような形の酒器であるとの事。酒器で水飴をつくり、さらに通常の方法で水飴をつくる時に用いる嚴瓮(いつへ:かめ)で酒造りをしたと言う事である。大和の地に神武が入る先駆けとなる「呪詛」を行ったのが九月五日、この文章が皆様の目に触れる頃が「神武が飴づくりをした時期」なのです。
なお、以上の文章は去る6月24日に生き物文化誌学会第15回学術大会のワークショップで発表させて戴いた内容に加え専門分野の皆様にご指摘戴いた間違いを加筆してまとめたました。
大阪府飴菓子掛物組合理事長・豊下正良