各地の菓子店探訪
三重県菓子店の投稿

戦国時代から続くお菓子「老伴」

㈱柳屋奉善

老伴

 初めまして、㈱柳屋奉善十七代の岡久司です、よろしくお願いします。当店では戦国末期に作られた「老伴」と言うお茶菓子を作っております。謎も多く、たかがお菓子ですので古文章にあまり登場しませんが、川柳などに出てきたりします。今までに調べた事を書いてみたいと思います。ただし口伝や想像・妄想なども含まれます。

 口伝では、天正三年(1575)滋賀県日野町で、蒲生氏郷公(利休七哲)よりお砂糖を賜り、お茶菓子製作の命を受けたと伝わっております。当時近くで安土城の建設準備中でしたので、目的は織田信長公(義父)をお茶会に招くためと推測されます。信長公は斬新なものや赤色がお好きでしたので、羊羹と最中と言う異質な組合せのお茶菓子が誕生したと思われます。最中の直径は12㎝で柄は秦(古代中国)で焼かれた瓦模様です。中央にコウノトリ、左右に「延年」文字があります。羊羹は赤く染められ蓋が無く片面最中となっています。まるで白く縁取られた日丸に見えます。古より丸印は天下を表しますので天下人になられた方をおもてなしする形では無いでしょうか。裏返すと幸せを運ぶコウノトリがいます。お茶席でこれを分ける行為は天下に幸せを分ける事につながります。一方で信長公はあゆち思想を学んでいました。愛知県の語源である「あゆち」では尾張は海の向こうから幸せの風が吹く国となっています。天下人を目指す信長公が理由を聞かれたとき、尾張に来る幸せの風を天下に吹かせるのだと家臣や民に答えていたようです。そして侵略した国々ではインフラを整備し楽市楽座など庶民の生活を豊かにする政策を実行しました。氏郷公が作った「松坂」もその一つです。老伴は当時「古瓦」と呼ばれていましたが、お茶席でこの大きなお茶菓子を分ける事が自分の言動や思想と一致している事に気づいた信長公は、おそらくニヤリとしたと思います。

 天正十年「本能寺の変」以降、古瓦は信長公や安土城同様滅びる運命にあったと思われます。ところが秀吉公が天下人となり氏郷公に「伊勢の国・四五百の森」への移転を命じます。氏郷公は日野から全商人を呼び城下町を創り「松坂」と命名します。江戸時代になり神宮領の「松坂」は「お伊勢参り」で急速に発展し松坂商人が台頭します。賞味期限が長く個性的な「古瓦」は、伊勢土産として全国に知られ、末期には豪商三井家の高敏様が白楽天の詩から「老伴」と名づけられ改名されます。その後明治天皇様が神宮参拝に来られ「老伴」を気に入られ、天皇家への納品が始まり、全国銘菓の一品になっていきます。

 戦国・幕末・明治維新・戦争/敗戦・伊勢湾台風・バブル崩壊、幾度も閉店の危機にさらされますが、なぜか「老伴」は復活し引き継がれます。私は440年の時を越え、様々な方にこのお菓子をお届け出来る事に喜びを感じております。この不思議なご縁にただ深く感謝し、皆様の心にいつも幸せの風が吹くよう祈ります。

 三重県菓子工業組合松阪支部長・岡久司