‘89鳥取・世界おもちゃ博覧会
成功の秘訣は地元の人の思い
菓子博を大成功に導かれた兵庫県さんに敬意を表し、広島菓子博の新たなる試みを高く評価しつつ、鳥取で平成元年に開催した「世界おもちゃ博覧会」の体験を述べさせていただきたい。
平成元年は、市政100周年を迎えた都市が全国で38都市あり、松江市の菓子博、福岡市の「よかとピア」、広島市の「海島博」など15市が記念事業として博覧会を開催した。
そのなかでも大きな注目を浴びたのが横浜博だった。横浜博は、当時日本最大だった観覧車や、NASAの宇宙訓練施設を呼び物としていた。事業規模は400億円。大手広告代理店が企画を担当。文字通り絢爛豪華な博覧会だった。
他方、鳥取市の当時の人口はわずかに14万人。お金ではなく、市民の知恵と汗で勝負する他はない。市政100周年に、次の100年を担う子どもたちのための「おもちゃ博」を開こうという、教育者出身の市長の思いに共感した人々の手によって、手づくりの博覧会の準備が始まった。
しかし、お金のない、小さな鳥取市の博覧会など、誰も成功するとは思っていなかった。ストレスのためか市長が倒れ、身体に障害が残り、開催半年前になっても出店業者が集まらず、「おもちゃ博・不人気」という批判記事が朝日新聞に掲載された。
ところが蓋を開けてみると、贅を尽くした横浜や名古屋の博覧会は入場者の獲得に大苦戦をしていた。
他方、手作りの「おもちゃ博」は、入場者の目標を早々と達成。閉幕の時点では、なんと目標の2倍の入場者数を記録したのである。92パーセントの人が良かったと評価した。実行委員長だった私も、子どもたちがゲートの傍で「帰りたくない」とだだをこね、親を困らせている場面を幾度も目撃している。入場者の「量」だけではなく、観客の満足度という「質」においても、成功を収め、「日本一」だと日経イベント誌に評価していただいた。
ターゲットを子供に絞り込んだこと。「観る博覧会」ではなく、子どもが遊ぶなど「する博覧会」だったこと。成功の要因はいくつもあげることができるだろう。しかしその最大のものは、地元での博覧会を成功させたいという地元の人たちの思いだった。朝から寝る時まで「おもちゃ博」のTシャツを身につけていた事務局スタッフの超人的努力が、人々の意識を変えたのである。
横浜、名古屋、鳥取の博覧会はNHK・BS2「日めくりタイムトラベル」昭和64年/平成元年に紹介され、鳥取が激賞された。
鳥取県菓子工業組合理事長・小谷寛