㈱いたに萬幸堂
大阪柏原の『亀甲せんべい』
この菓子工業新聞は、マークのデザインからして、和風生菓子が意識されている。記事もどちらかと言えば和洋生菓子中心になっている。全国菓子飴大品評会当時の意識は「飴」が入っているように、一般菓子(流通菓子)も大いに仲間であったはずである。そこで、今回は大阪府柏原市にある㈱いたに萬幸堂の「亀甲せんべい」を紹介したい。この商品、とにかくよく売れていて3年前から季節に限らず、1週間に2日は徹夜作業を続けている。町中の工場なら、ご近所から文句も出るところだろうが、工場は信貴山麓に位置し、その心配は無用である。ほとんど宣伝もしていないにもかかわらず、どうして売れ続けているのだろうか。
まず、㈱いたに萬幸堂の話をしよう。国道25号線沿いの柏原市今町に工場がある。現社長祐一氏は二代目で、創業者の伊谷勝廣氏は柏原市雁多尾に広大なぶどう畑と畑を有していた豪農の出身である(現在は桜の名所)[あゝ悲しき従軍記]という菓業人必読の書を残しておられる。既に敗色濃い昭和19年、海軍兵として小さな輸送船でレイテ島に渡り、戦友たちが飢餓とマラリヤでほとんどが死んでしまう。九死に一生そのままに、奇跡的に生き残られたという手記である。祐一社長が貴重な記録として校正し出版されている。
戦争体験者に2種あって、あまりの悲惨を見てしまった人たちは、戦後活躍なさる事無く過ごされた例と、あの苦労以上の苦労はないのだとばかりに、慣れぬ仕事に挑戦して大いに財を得た方々も知っている。初代伊谷勝廣氏は後者の方で、農地はそのままに心機一転、せんべい製造業にまい進されることになった。
決して1本調子で事業が成功したのではなかった。戦地の苦難と異なる厳しさであったが、忍耐と真面目さはあのレイテでの体験からすればものの数ではなかった。夜遅くまで機械の整備に携わる父の姿を祐一現社長は見て育った。
大阪萬幸堂という同じせんべいを製造されているところが大阪市内に盛業中であるが、勝廣氏の弟さんが戦後一緒に仕事をはじめられ、切磋琢磨し今日では両社は大阪のせんべい量産メーカーとして有望視されている。
それでは売れ続ける「亀甲せんべい」に戻ろう。売れ続けるものに実は共通点がある。口コミの凄さである。特に最近はスマホが、良し悪しの情報を瞬時に伝えてくれる。今でも毎日数回「亀甲せんべい」の問い合わせが届く。
「こんなおいしいお菓子は初めてです」とか、「どこで売っていますか」など、もっとも「亀甲せんべい」にはQRコードがついており、問い合わせに拍車がかかる。「亀甲せんべい」は昔からどこかにあったような気もするが、いたに萬幸堂でも20年前から製造販売していたという。以前から少し高めの価格設定が当時の菓子問屋の気に召さず、高いからだめ、という評価であった。それでも続けたことが良かった。12枚330円が現在の1袋価格である。確かに他のせんべいより袋当たり約100円高い設定である。火が付いたのは問屋ではなく、スーパーのバイヤーからであり、彼らの情報網が、客の声として取引に結びつけるのである。他社のものと姿は同じでも、食べると確かにおいしくできている。表示されていないところ(塩の銘柄など)に気を使っているのであろう。それに生地と豆のバランスが絶妙であり、砂糖類のカラメライズが命の商品となっている。一見和風の顔をしているが若い女性からも声が寄せられる。ますます今後も有望商品である。
㈱いたに萬幸堂
http://itani-m.com/
大阪府菓子工業組合・中島孝夫