『源氏物語』が伝えた和菓子・椿餅
田辺市 京菓子司まるぜん菓子舗

『源氏物語』。平安時代に紫式部が著した「光源氏」を主人公とする54帖から成るこの物語の後半、第34帖「若菜上」に登場する菓子が椿餅。
ある年の3月、ところはのちに源氏の妻になる女三宮が住む六條邸で公達たちが蹴鞠に打ち興じていた。彼らが一服していると、梨や柑子など果物と取り混ぜて「つばゐもち」が箱の蓋に載せ、運ばれて来る、若者たちはそれを取っては口にし、談笑している。
この「つばゐもち」が、件の「椿餅」なのである。今日のような餡子が発明されていない時代のこと、甘味は甘蔓煎か蜂蜜か、いずれにしても希少な高級品であっただろう。菓子の名を書き留めていることに、その価値の高さがうかがえる。
紫式部がいた時代から約千年、令和の時代のいま、椿の花の季節には和菓子屋が「椿餅」を作り、茶会の席を彩るところに白い餅と椿の常緑の葉のコントラストに日本人が抱く、時代を超えた心をみる。

和歌山県田辺市の中心部の海蔵寺の隣り、通りに面して店を構える京菓子司まるぜんは、椿の花が咲く10月の終わりから4月初めにこの菓子を作っている。創業は昭和27年、紺地に白抜きで「まるぜん」と染めぬいた暖簾が掛かる店内に入ると、手水鉢の水が涼やかな音を立てている。そばに椿の花が、一輪。田辺は「水の美味しさ」を市民が自慢する町である。
まるぜんの椿餅は、小豆の餡子を羽二重餅で包んで丸く整え、椿の葉で上下からはさむ。葉は濃い方が表、葉先はそのままに下の部分を数ミリ切る。きめ細かな白い餅が、つややかな緑の葉に映える。餅は道明寺ではなく、羽二重餅を用いるところにこの店の特徴がある。先代の故陽司氏が京都と名古屋の老舗で修業時代に学び、決めたのが羽二重餅だった。「私は二十歳の頃に仕事場に入り、父親から受け継ぎました」と3代目衛藤崇さん(43)。「椿餅は羽二重餅特有の食感とともに、ふわっとした柔らかさを大事にしています。ふわっとした特徴は、餅を練って蒸しあげるときにメレンゲを加えることで生まれます」。羽二重餅の搗き方、蒸し具合プラスメレンゲ、その細心の注意と調整が職人のウデである。小豆と砂糖を柔らかめに炊いた餡子は「さっぱりした甘さ」で、「口のなかで溶けていく」幸福感がある。「柔らかい餡を餅で包むのは難しい」。ちなみに椿餅の葉は自宅の庭に植えている藪椿や近くの山で摘んだ葉を使う。こだわりをもって、一個一個丁寧な仕事を心がける。「お客さんに喜んでもらえる、扱いやすいお菓子をこれからも作っていきたい」、3年前に亡くなった父の教えを胸に、一人で月に十数種類の季節の生菓子と郷土菓子を作り、店頭で立つ母房子さんと「まるぜん」の暖簾を守る。
千年の時を超えていまに至る菓子椿餅を作る思いを尋ねたが、若主人にことさら力みは感じられない。「菓子は、形や味は時代で変わっても、美味しいものを作ろうとする心は変わらないと思う」。いくつものこだわりを隠した奥ゆかしさが、魅力ある和菓子を生む。
記事投稿:紀州の和菓子と文化を考える会・代表・鈴木裕範・和歌山大学客員教授
和歌山県菓子工業組合事務局・高橋義明